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すべての人が必ず目にしている東洋インキの“色彩”
2016.01.22 jimotoKigyo
京橋で会社を設立して108年の老舗企業
京橋は、大手企業、老舗企業の本社が数多く集まっている街としても知られていますが、世界第3位のインキメーカー「東洋インキ」も、そうした企業のひとつです。
日清戦争が終わった翌年の1896(明治29)年、東洋インキの創業者、小林鎌太郎が、当時の日本橋区本銀町(ほんしろかねちょう、現在の中央区日本橋本石町)に「小林インキ店」を開業します。その11年後の1907(明治40)年、個人商店だった小林インキ店を株式会社化し、社名を「東洋インキ製造株式会社」としました。この時、本社を京橋に構えたのです。
東洋インキSCホールディングス(持株会社制移行に伴い、2011年に改称)専務取締役の青山裕也さんは、京橋に本社を置いた背景についてこう語ります。
「社史によると、明治の後期、銀座には100社を超す新聞社があり、その印刷を担う印刷所も銀座、築地に集中していたそうです。また、京橋、銀座には画廊も数多くありました。そうした関係で、印刷用インキや絵の具の営業には、もってこいの土地柄だと考えたのでしょう。」
京橋の本社は、関東大震災(1923年)と太平洋戦争の空襲(1945年)で2度、焼失してしまっています。しかし、その度に社屋を再建し、東洋インキは京橋を離れませんでした。
そんな〝京橋愛〟にあふれる会社、東洋インキとはどんな会社なのでしょうか。
時代に合わせ、環境に配慮したインキを開発
「インキメーカー」と聞いて、皆さんは、どのような業務が思い浮かびますか?
東洋インキは「印刷用インキの製造販売」からスタートした会社ですが、技術の進歩、社会の大きな変化の中で、事業も大きく拡大、変化してきました。
印刷インキ関連の事業は、新聞・書籍などの印刷に使う「紙用」から始まり、様々な商品のパッケージの印刷に使う「フィルム用」へと、大きく拡大しました。パンやスナック菓子の包装、カップ麺の容器、ペットボトルのラベル、シャンプー・リンスの詰め替え容器、更にはフローリング建材など、実に幅広く東洋インキの印刷インキは使われています。
「『どこで作られたものなのか』を辿ってずっと遡っていくと、身の回りのほとんどの品物が、どこかで東洋インキにたどり着くのではないでしょうか」(青山さん)というくらい、私たちの暮らしに密接に結びついている会社なのです。
また、機能性が高く、環境に配慮した印刷インキの開発も進んでいます。中でも、最近は「高感度UVインキ」が売り上げを伸ばしているそうです。この高感度UVインキとは、紫外線(UV)でインキが乾くようにつくられていて、インキを乾かすために使う電力量を減らし、印刷物の納期を短縮できるなど、機能・環境の両面で優れた製品です。青山さんは、「高感度UVインキは生産が追いつかず、ヨーロッパへは製品を空輸しているほどです。おかげで、儲けが出ません」と、うれしい悲鳴をあげています。
こうした高品質・高性能のインキの開発は、東洋インキが1世紀以上にわたって原材料・素材に関する研究、製造に必要な分散加工技術の研究を積み重ねてきたからこそ、できたことです。
少し時は遡りますが、東洋インキの技術力の高さを物語るもののひとつに、1953(昭和28年)に発売されたタバコのショートピースのパッケージがあります。専売公社(当時。現在のJT)が決定したデザインは、濃紺藍色をベースにしていました。この色を出すための「フタロシアニンブルー」という顔料は、摩擦に弱く、触れたものに色がつきやすいため、タバコの外箱に使うには不向きでした。ここで、東洋インキの技術陣が奮起します。原材料から見直し、新しいタイプのフタロシアニンブルーを完成させ、問題を解決したのです。青山さんは、「当社は、それまでも青系のインキには強みを持っていたのですが、この時に開発された新型のフタロシアニンブルーは、その当時の人が見ればショッキングなくらい、本当に鮮やかな濃紺藍色だったと思います」と話します。
「色彩」を届ける使命
そして、東洋インキの技術力が生んだ製品は、印刷インキだけではありません。「インキの主な原料は、顔料と樹脂です。その顔料、樹脂、それぞれに関する技術・ノウハウを発展させることで、多様な分野の製品を開発しています」(青山さん)。
顔料からは、プラスチック用着色剤、自動車の内装・外装用色材、建築塗料用色材、化粧品向けの顔料などなど、「色」に関わる多彩な製品を世に送り出してきました。さらに、液晶向けカラーレジストインキは、テレビやスマートフォンなどに使われていて、これからの事業の発展が見込まれています。
「皆様が何気なく目にしていらっしゃる多くのものに、当社の製品が使われています。私たちの仕事は、人々の暮らしに『色彩』をお届けすることだと思っています」と、青山さんは語りますが、その言葉には東洋インキのプライドが込められているように感じます。
一方、樹脂からは、様々な用途の接着剤・粘着剤、あるいは接着剤・粘着剤を塗った製品が生み出されています。代表的なものとしては、看板用のマーキングフィルムやバスなどの車両をラッピングするフィルム、皮膚に貼るサージカルテープやスポーツテープ用粘着剤などがあります。最近では、携帯電話やスマートフォンにも使われている電磁波シールドフィルムなど、エレクトロニクス分野の製品のウエイトも高まってきています。
こうした事業の発展について、青山さんは次のように語っています。
「当社の技術力を、時代のニーズに合った分野で活かしていこうと努力した結果、たくさんの新製品を生み出すことができました。これから特に大事になってくるのは、エネルギー、エレクトロニクス、ライフサイエンスの分野だと考えています」
屈指のビジネス街にある、ビジネスだけではない魅力
ここまで東洋インキについてご説明くださった青山さんは、実は、1979(昭和54)年の入社以来ずっと京橋勤務で、「京橋の本社にいる期間の長さは、会長に次いで第2位」(青山さん)なのだそうです。最後に、そんな青山さんに、京橋の街について聞きました。
「京橋といえば、やっぱり明治屋さんですよね。その明治屋さんは残ってくれていますから、嬉しい限りです。『明治屋地下のレストランが早く戻ってきてくれないかなあ』って、私も含め、社員の多くが思っています。ウチは、OBの人たちも、よく明治屋に集まって飲んでいました。夕方の4時くらいから飲んでいるのがOBで、6時くらいにはもう切り上げていて、入れ替わりで現役が行くんです」
「京橋の街のいいところは、明治屋さんもそうですが、他にも『京橋ならでは』という店があって、ビジネス街でありながら文化と人間味にあふれた場所だと思います。ビジネス街の中なのに、それぞれに有名な焼き鳥屋さんが3軒並んでいて、しかも、帝国ホテルの料理長が来るような名店ですから。仕事一辺倒ではないけれども、その中に、老舗企業が集まっている街にふさわしい紳士的な雰囲気というか、品格のようなものが漂っている。そんな風景が、京橋なんじゃないでしょうか」
青山さんは、若い頃、主にプラスチック用着色剤の営業として、京橋の本社を拠点に走り回っていました。本社があったあの一画には、なぜか蕎麦屋さん、中華料理屋さん、お寿司屋さん、天ぷら屋さんが1軒ずつあって、それぞれの店によく行ったのだそうです。そんな思い出深い京橋の再開発に感じることを、青山さんは東洋インキの発展の姿を重ねながら、次のように話してくれました。
「今、日本のインキは世界最高の品質と認められていますが、最初から高品質のインキが製造できたわけではありません。ライバルを意識しながら切磋琢磨し、そして、新しい力を吸収しながら成長することで、今があると思っています。もしかすると街の成長、発展も似たようなところがあって、今回の京橋の再開発は、新しい力を取り入れて成長していくいい機会なのでしょう。その意味で、再開発が完成し京橋がどう成長するのか、本当に楽しみです。新しくどういった人たちが京橋にやって来て、どのような変化をもたらしてくれるのでしょう。願わくば、紳士的な京橋人が増えて、変わっていく京橋の中に変わらない京橋の魅力がもっと輝くようになればいいと思っています」
INFORMATION
名称 | 東洋インキSCホールディングス株式会社 |
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住所 | 東京都中央区京橋3-7-1 |
電話番号 | 03-3272-5731 |
営業時間 | - |
定休日 | - |
カード | - |
Webサイト | http://schd.toyoinkgroup.com |
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