HISTORY
時代により様々な顔を見せる京橋の変遷
地名の由来
「京橋」という地名は、東海道の起点である日本橋から、「京へ上る最初の橋」であったことから、その名が付いたとされています。その橋は、昔は京橋三丁目と銀座一丁目の間を流れていた京橋川に架けられており、親柱には擬宝珠が飾られていました。この擬宝珠があったのは京橋と、日本橋、新橋の3つの橋のみであり、幕府が京橋を重視していたことがわかります。昭和34年京橋川の埋め立てによって橋はなくなり、現在は東京高速道路が走っています。
職人の仕事から
町名がつけられた江戸時代
江戸時代、この地域の中心には東海道(現在の中央通り)が南北に通っており、その周辺に職人町が集まり賑わいを見せていました。
中でも、材木から桶まで木を扱う職人が多く、現在の京橋一丁目付近は大鋸町と呼ばれ、材木を加工する職人が住んでいました。大鋸とは、材木用の鋸(のこぎり)の事で、もとは「おおがかりちょう」と発音していたものが、短縮されて「おがちょう」となりました。
その他、材木問屋が集まる正木町、大工が住んで居たことに由来する南大工町、桶職人の集まる桶町などが存在しました。
さらに、京橋と白魚橋(現在の銀座一丁目)の北東河岸には熊手、籠などを作る竹職人が集まっていたため、竹河岸と呼ばれていました。その当時の様子を物語るのが、広重の名所江戸百景のひとつである、「京橋竹がし」の画。画中の左岸にそびえたつ竹河岸が、存在感を放っています。
材木以外では、神田の鍛冶職人が移住してできた町である南鍛冶町、江戸幕府のために畳をつくる、優れた畳職人の町、畳町などがあり、住んでいる人々の職業から多くの町名が付けられていました。
また、現在の京橋一丁目から三丁目にまたがる辺りに、長細い町の南伝馬町がありました。南伝馬町とは、大伝馬町、小伝馬町と同じく、江戸時代にこの地から伝馬の飛脚を出していたことからつけられた町名です。
明治・大正から現在へ、
変わりゆく街並み
明治・大正時代になると、日本橋と銀座を結ぶ商店街として栄えました。
大正12年の関東大震災では京橋を含む下町地域は大きな被害を受けましたが、焼け跡となった町の区画整理をし、道路を広く作り直しました。しかし、やっと復興した町が戦争で再びがれきの山となると、そのがれきで川を埋め立て、人々はもう一度町を再建しました。昭和22年には京橋区と日本橋区が合併して中央区となり、昭和27年にはブリヂストン美術館が開館し周囲に画廊も増え美術と骨董の拠点となりました。京橋から日本橋に続く「東仲通り」は戦前から骨董美術商の集まる町で、「京橋美術骨董通り」と呼ばれています。現在でも100を超えるギャラリーなどが軒を連ね、春には「東京アートアンティーク~日本橋・京橋美術骨董まつり」を開催しています。世代を問わず国内外の多くの人が、日本の美術、骨董に親しみ、作品に触れる機会を作りだしています。震災と戦後の復興後は多くの企業が進出したことで、オフィスビルが多く立ち並ぶビジネス街となり、京橋とその周辺エリアは、今も昔も多くの人と物が行き来し日本の商業・ビジネスの中心地となっています。